丸い三角形

出来るだけ快適で楽しい生活

横長のスライダー

祖父のお見舞いに田舎の病院まで出かけた。祖父はひどく疲れているようだった。昔は、私が小さいころはとてもよく面倒を見てくれて居た。その祖父がとても弱々しく映った。祖父がベッドに横たわり、ゆっくりと昼食を口に運ぶのを眺めて居た。食事をするというよりも、口に運ぶという表現が正しいように思える動作だった。お土産に近所の紀伊国屋で買って来たゼリーを食べさせた。食事を半分程度で残したと思えば、アーモンドが食べたいと言っていた。幻覚が見えるとも言って居た。写真を最後に一緒に撮ったのだけれど、最後まで祖父は笑ってくはくれなかった。
生きていると、死がすぐそこにあることを実感する。毎日毎日、少しづつ生という状態から死という状態に移行している感覚がある。スマートフォンの写真編集アプリで、ライトニングやカラーバランスを編集する時に使う横長のスライダーのインターフェイスのようなイメージ。一方の端が生で、その逆の末端が死。ただそれだけのことのように思えてしまう。
生きている段階の最も成熟した状態を、死と呼ぶのであれば、それが個人的な死への考え方としては最もしっくりくる。生と切り離してしまうと、私はとても寂しく感じてしまう。急にハサミでバッサリとテープを切られたような気がして、私が見て触って感じてきた人から切り離された状態で死が存在していると、それはとても寂しい。
随分昔に女の子が亡くなった時に誰かが「その子にとって、死が最適解であれば良い」というようなことを言って居た。言葉の肌触りとしては、とても優しいものであって、彼女の全てを肯定してあげたいというような気持ちを感じることができた。私はその考え方というか、表現の仕方が、今になっても正しいことなのか、そうでないことなのかわからないけれど、その誰かの言葉だけが今でもずっと心の中に残っている。
最適解であるということは一体どういうことなんだろう。単純に言葉の意味で捉えれば、最も適した解答ということになる。人間のもっとも成熟した状態を死とするのであれば、成長が主な生きる理由である私たちにとって、死は確かに最適解だと思える。
死について考えてしまうのは、死の気配を感じたからなのだろうか。ただ今は祖父にそんなに急いで成長しなくても良いよと伝えたい。できればゆっくりと生から死にシフトしていってもらいたい。私にはまだ死が想像できないから、喜ぶことも出来ずに寂しさに、悲しむことしかできないから。